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目次
1. 神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗でもよいのではないか
2. 宗派は分かれているが、到達する目的はおなじではないか
3. どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが
4. どんな宗教にも、それなりの利益があるのではないか
5. 仏教はすべて釈尊から出ているのだから、どれを信じてもおなじではないか
6. 先祖を崇拝することがまちがっているのか
7. 他の宗教で幸福になった人もいるのではないか
8. 他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが
9. 先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない
10. 自分の気に入った宗教が一番よいと思う
11. 自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ
12. 信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ
13. 信仰は必要なときだけすればよいのではないか
14. 歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが
15. 邪宗という呼び方が気に入らな
1. 神仏を礼拝することが尊いのであるから、何宗でもよいのではないか
   宗教に限らず、人間にとって敬い、信ずるということは大切なことです。
日常生活においても信頼する心がなかったならば、食事もできませんし、乗り物はおろか、道を歩くことも、家に住むことさえできないでしょう。


 では反対になんでも無節操に信ずればよいかというと、それもいけません。道に迷ったときは道をよく知っている人に尋ねれば、間違いなく目的地に着くことができます。私たちは目的地に正しく導いてくれるものを信用したときには、所期の目的が達成されるわけですし、反対にいつわりのものや目的と違ったものを信じたときには、思い通 りにならず、不満や不幸を感ずるのです。


 質問のように、神仏を信ずる心が尊い、神仏を礼拝する姿が美しい、だから何宗でもよいというのは、詐欺師の言葉でもそれを信ずることが尊く、ブレーキのこわれた車でも信じて乗ることがよいということと同じです。


 私たちの生命は周囲の環境に応じて、さまざまな状態やはたらきをします。ちょうど透明な水の入ったコップが周囲の物や光によって色が変化するようなものです。「朱に交われば赤くなる」という言葉も、周囲の縁によって感応する私たちの生命のはたらきを指したものでありましょう。信仰は“信ずること”であり、“礼拝すること”なのですから、単に交わるとか尊敬する状態よりさらに強い影響を受け、それによってもたらされる結果 や報いは、人生に大きな影響を与えることになります。
 

 いいかえれば、信仰における礼拝は、その対象たる本尊に衆生の生命が強く感化されるのであり、人間の生命と生活の全体に、これほど強烈に働きかけ、影響を与えるものはないのです。ですからいかに信ずることが尊いといっても、人間に悪影響を与える低劣な本尊や、誤った宗教を信ずるならば、その本尊や教えに感応して、次第にその人は濁った生命となり、不幸な人生を歩むことになるわけです。


 たとえば「稻荷」と称してキツネを拝んでいると、本尊のキツネの生命に、その人の畜生界の生命が感応して、その人の性格や行動、さらには人相まで似てきます。本来ならば過去と将来を考え、理性をもって生きるはずの人間が、畜生を拝むことによって計画性や道徳心が欠落し、人間失格の人生に変わってゆくのです。もし架空の本尊や架空の教義を信仰すれば、同じように人間でも、人生も、生活も実りのない浮き草のようなものになってしまいます。


 せっかく信仰心に目覚めたのですから、理論的にも正しく、経典によってその正しさが証明され、現実に人々を幸福に導く真実の本尊と真実の教えを説き明す宗教に帰依すべきでありましょう。



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2. 宗派は分かれているが、到達する目的はおなじではないか
   宗派は別でも宗教の目的は同じなのだから、どの宗派でもよいのだ、と主張する人の中には、「分け登る 麓の道は多けれど 同じ雲井(くもい)の月をこそ見れ」という歌を引き合いに出すことがあります。


 しかし、これはあくまでもひとつの古歌であって、実際は同じ麓の道でもひとつは他の嶺(みね)に至るもの、別 な道は山ではなく池に至る道かもしれません。なかには命を落とすような危険な谷に通 じている道であるかもしれません。ですから歌やことわざにあるからといって、それを証拠に宗教を論ずることはできません。
 

 いま各宗派の教義をみると、教主も本尊も修行も経典も、それぞれまったく異っています。

 キリスト教はイエスキリストによって神(ゴッド)が説かれ、バイブルを教典としておりますし、イスラム教はマホメットによってアラーの神への帰依が説かれ、コーランを所依の教典としています。儒教は孔子によって道徳が説かれており、仏教は釈尊によって三世の因果 律という正当な原理を根本として、人間の生命とその救済を説かれたものです。


 しかも同じ仏教の中でも、小乗教は劣応身という仏を教主として戒律を説き、一切の煩悩を断じ尽した阿羅漢という聖者になることを目的としています。


 これに対して大乗教の中でも、華厳経を所依とする華厳宗、方等部から発した真言宗、淨土宗、禅宗など、般 若部の教理をもとにした三論宗など、これらは経典がそれぞれ違うわけですから、当然教義や修行、目的、教主がすべて異っているのです。


 まして「唯有一仏乗」といわれる法華経は今までの四十二年間の教えとは比較にならない深遠な教理と偉大な仏の利益、そして真実の仏身が説き現わされたものです。


 その目的も、今までの経教では、三乗即ち声聞を目的とする者、縁覚を目的とする者、菩薩になることを目指す者をそれぞれ認めて、それに見合った教義と修行を別 々に説いていたのですが、法華経に至ると、今までの三乗を目的とする教えは方便であり仮りのものなので、すべてこれを捨てよ、信じてはならないと釈尊自らが戒められ、一仏乗すなわちすべての人が仏の境界に至ることこそ真実の目的であると教示されました。

 
 このように宗教と言っても宗派によって本尊も教義も目的もまったく異っているのです。

 もしあなたが“宗教”という大きな意味で、目的が“救済”ということだから、どれでも同じだというならば、それはあまりに大雑把な考え方だというべきでしょう。


 それはあたかも“学校”はどこも“教育”を目的にしていることは同じだからといって、小学校でも大学でも自動車学校あるいは料理学校でも、どこへ通 っても同じだということと同じです。


 宗教の選択が人間の幸・不幸にかかわる大事であることを知れば知るほど、このような無責任で粗雑な判断は当を得たものでないことがわかると思います。



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3. どんな宗教にもよい教えが説かれていると思うが
  これについて二点から考えてみましょう。
 
 その第一は、教義の善し悪しとは何によって決められるかということであり、第二には宗教とは観念的な理論のみではなく、実践がともなうものであるということです。


 まず第一の教義の善し悪しですが、もし一般的な道徳や常識という見地に立てば、人殺しや盗みを奨励する宗教でないかぎり、よい教えを説いているようにみえます。
 しかし、宗教は個人の身体と精神を含む全人格が帰命し、よりどころとするものですから、高い教えと低い教え、部分的な教えと大局的な教えの相違は、信ずる人間性に対して敏感に影響します。したがってひとりの人間をより根本から蘇生させ本源的に救済するためには低級で部分的なものではなく、高度で大局的な教えに帰依しなければなりません。

 日蓮大聖人は、
 「所詮成仏の大綱を法華に之を説き、其の余の網目は衆典に明かす。法華の為の網目なるが故に」(観心本尊得意抄・新編九一五)
と仰せられ、法華経という大綱があって、はじめて法華経以前に説かれた諸々の教えが生かされると説かれています。


 仏教以外のキリスト教やマホメット教、儒教、神道、なども一見すると人倫の道が説かれており道徳的にはよい教えのようですが、人間の三世にわたる生命論や、人間が具有する十界三千の実相が説かれていませんし、これらを仏教とりわけ法華経と比べるとまったく低級な宗教であることがわかります。また、

 「無量義とは一法より生ず」(無量義経・開結一九)
ともいわれますように、唯一無二の大綱たる一法を信受するとき、種々の経々に説かれている功徳利益のすべてがはじめて生きてくるのです。


 この一法こそ仏法の上からいうところの真実の一法であり、もっとも正しい教えなのです。

 次に宗教には必ず実践がともないますから、理論的にはいかに立派な教えであっても、それが現実に生かされないものであれば、なんの役にも立ちません。


 その理論的教義を現実に証明し民衆を救済する教主が出現するかしないかは、その宗教が真実か空想かという違いでもあります。教主がみずから出現し、正法正義を説いてそれを実践し証明したとき、はじめてその宗教は信憑性のある宗教といえるのです。


 たとえば新興宗教のなかにモラロジー(最高道徳)という宗教がありますが、その教義は“釈迦・キリスト・孔子などの教えの中からそれぞれよいところだけを取り出して実践する”というものです。
 しかし、同じ釈尊の教えの中でも、二百五十戒、五百戒という戒律の実践を説く教えもあれば六度の修行〔布施(ふせ)・持戒(じかい)・忍辱(にんにく)・精進(しょうじん)・禅定(ぜんじょう)・智慧(ちえ)〕もあり、以信得入(いしんとくにゅう)すなわち信ずることが悟りに入ることであるとも説いています。このなかのどこをよい教えとして用いたり、反対に切り捨てたりするのでしょうか。


 これを靴にたとえれば、雨の時はゴムの長靴が最適であり、登山には登山靴、野球・テニス・サッカーなどにはそれぞれ目的にかなった靴があります。また海水浴の時はだれでも、はだしになるわけです。


 これらをすべてがよいからといって、すべての靴のよいところと、はだしをいっしょに用いることなどはできるわけがありませんし、そんなことを言えば狂人と笑われるでしょう。


 このモラロジーという宗教が犯している誤りのひとつは、大綱と網目の相違、すなわち大局的・総合的な教義と部分的な善悪との判断がつけられず、無節操にどれでもよいと考えていることであり、もうひとつは生きた例証もなく、実践も不可能な空想論をかってに教義と称して信者に押しつけることにあります。一見するとよい教えのように思われる宗教でも、よく検討するならば、低級宗教や、邪悪な宗教であると気がつくでしょう。



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4. どんな宗教にも、それなりの利益があるのではないか
   すべての宗教かどうかはわかりませんが、低級宗教や教義もないような宗教、あるいは宗教ともいえない精神統一などにも一分の利益というべき結果 が見られる場合があります。人によってはこの一分の結果や様相が御利益のように感じられるのでしょう。


 しかし、人間の生命には一念三千といって三千種類の生命状態が可能性として潜在しており、それが縁にふれて様々な作用をするわけですから、周囲の状態(縁)を変えることによって今までとは違った心境や状態になることもありうるのです。生活と仕事に追われていた人が、心を鎮めて何かを拝み祈ることによって、今までとは違った心境になるでしょうし、時には精神の変化が肉体に影響して病気が好転することも不思議なことではありません。


 また、祈祷師や占い師などのように利根や通力という一種の超能力をもって、他人の願いごとを祈ったり、将来を占い、それが時にはかなったり当たったりすることもあるでしょう。これなども人間生命の潜在的可能性の一分が現われたものであり、あっても不思議ではありません。

 しかし日蓮大聖人は、
 「利根(りこん)と通力とにはよるべからず。」(唱法華題目抄・新編二三三)
と説かれ、人間の真の幸福は仏の境界に至ることであり、このような超能力によってはいけないと戒めています。


 ともあれ、宗教の高低・正邪をとわず、いずれの宗教にも一部分の利益ともいうべきものがあるかも知れませんが、私たちの真実の幸福は一時的な神だのみや、目先の急場しのぎによって得られるものではなく、宇宙法界を悟った仏の教えにしたがい、正しい本尊を信仰することによって得られるものなのです。


 すなわち本仏の慈悲によって仏天の加護を受け、正しい信心と修行によって人間としての福徳を備え、清浄にして自在な仏の境界を現実生活の中で生かしていくことが仏教の目的であり、真実の大利益なのです。


 たとえば、ここに幸福に到達する正しい道と不幸に至る邪な道があるとします。正しい道は向上するものですから、険しい坂道や困難な壁にぶつかることもありましょう。反対に邪な道は下降する道ですから、快適な下り坂があり途中には美しい花が咲いているかもしれません。


 しかし一輪の花や下り坂に魅せられて不幸な破滅の道を選ぶべきではありません。邪な宗教によって一分の利益がもたらされるのは、あたかも詐欺師がはじめに正直者を装い、おいしい餌を相手に与えるようなものであり、正しい宗教に帰依することを妨げようとする魔の働きなのです。


 一時的、表面的な結果のみにとらわれることなく、正しい教理と経文、そして現実の証拠がそなわっている正しい宗教によって、正しい人生を歩むことこそ人間としてもっとも大切なことなのです。



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5. 仏教はすべて釈尊から出ているのだから、どれを信じてもおなじではないか
   今から三千年前にインド北部のカピラ城の王子として誕生した釈尊は、十九歳のとき修行者となり、三十歳の時にガヤ城の近くで悟りを開きました。その後八十歳で入滅するまで五十年の間、人々に悟りの法を教えるためにさまざまな教えを説きました。


 中国の天台大師は、釈尊の五十年間の説法を深く検討して、その内容から説法の時期を五つに区分しました。これが「五時(ごじ)」といわれるものです。また「八教(はっきょう)」という区分けもしていますが、ここでは「五時」によって説明しましょう。


 第一は華厳時(けごんじ)といって、釈尊は開悟の後、直ちに二十一日間にわたって哲学的な十玄六相(じゅうげんろくそう)などの教理を説きましたが、聴衆はまったく理解できませんでした。


  第二は阿含時(あごんじ)といって戒律を中心とした教えを十二年間説きました。これは三蔵教(さんぞうきょう)あるいは小乗教といわれ、仏教の中でもっとも低い教義です。


 第三は方等時(ほうどうじ)といって幅広い内容の教えを十六年間説きました。これは弾訶(だんか)といって小乗教に執着する人を叱責し、大乗教すなわち自分のみでなく他人をも内面 から救う教えに帰入(きにゅう)させるものです。


  第四は般若時(はんにゃじ)といって十四年間、空すなわちこの世のものは何ひとつとして定まった実体などなく、執着すべきものはないという教えを説きました。


 この般若と第一華厳・第三方等は大乗教ですが、いまだ釈尊が久遠(くおん)の仏であることを明さず、人生の目的は三乗〔声聞(しょうもん)・縁覚(えんがく)・菩薩(ぼさつ)〕にあるとして、真実を示さない仮りの教えでした。


 釈尊は第五時の法華経を説法するために、まず無量 義経を説きましたがその中で、“仏の眼をもって衆生の根性を見るに、人々は種々様々の心根だったので、まずそれを調えるために種々の方便の力を用いたり、仮りの法を説いたのである。” と説明し、

 「四十余年には未だ真実を顕さず」(無量義経・開結二三)
と説いています。そして法華経八年間の説法で、はじめて真実の教えとして、いかなる人もその身のままで仏の境界に至る一仏乗の法を説きあらわしたのです。


 現在、東大寺を本山とする華厳宗は第一華厳時の教義を所依とし、タイやビルマなどに残っている戒律仏教や、律宗などは第二阿含時の経典を教義としています。


 また浄土宗、禅宗、真言宗、法相宗などは第三方等時の経典からそれぞれ宗義を立てており、天台宗や日蓮宗各派のように法華経を依経としていても迹門(しゃくもん)の観念的教理を中心としているなど、いずれの宗派も、末法現時に適した究極の教えである法華経本門の法を依教としていません。


 法華経本門の教えとは、釈尊が久遠の昔に成仏するために修行した根本の原因となる一法であり、それは日蓮大聖人が唱えあらわされた南無妙法蓮華経に尽きるのです。


 このように同じ仏教といっても、教義の内容や目的、そして修行もまったく違うのですから仏の本意に基づく真実の教えに帰依しなくてはなりません。



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6. 先祖を崇拝することがまちがっているのか
   先祖を敬い、崇めることは、仏法の教義に照して、決してまちがいではありません。むしろ人間としてたいへん立派な行為といえます。


 しかし先祖を神として祭ったり、「仏」と呼んで祈願や礼拝の対象とすることは誤りです。なぜならば先祖といっても、私たちと同じようにひとりの人間として苦しんだり悩んだり、失敗したり泣いたりしながら生きた人たちであり、生前も死後も悪縁によれば苦を感じ、善縁すなわち正法によれば安楽の果 報を受ける凡夫であることに変わりがないからなのです。


 言いかえれば人間は死ぬことによって、正しい悟りが得られるわけではありませんし、子孫を守ったり苦悩から救ったりできるわけでもないということです。


 世間では先祖や故人を「仏」と呼ぶ場合がありますが、これは仏教の精神から見て正しい用法ではありません。 仏とは仏陀(ぶっだ)とも如来(にょらい)ともいい、この世の一切の真実の相(すがた)と真理を一分のくもりもなく悟り極めた覚者という意味です。


 仏教の経典には阿弥陀仏や薬師仏、大日如来などたくさんの仏が説かれておりますが、これらの仏について、法華経には、

 「此の大乗経典は諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり」(観普賢経・開結六二四)
と説かれ、日蓮大聖人も、
 「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏になり給ひしなり」
(法華初心成仏抄・新編一三二一)
とのべられているように、多くの仏はすべて大乗経典たる妙法蓮華経という本法を種として仏となることができたのです。


 この原理は私たちや先祖が何によって真に救われるかをはっきり示しています。

 すなわち本当に先祖を敬い、先祖の恩に報いる気持ちがあるならば、生者死者をともに根本から成仏せしめる本仏本法に従って正しく回向(えこう)供養しなければなりません。


 また先祖の意志を考えてみますと、先祖の多くはわが家の繁栄と子孫の幸せを願って苦労されたことでしょう。急病の子供を背負って医者を探し求めたこともあったでしょうし、妻子を助けるために我が身を犠牲にされた方もいたことと思います。


 このように一家の繁栄と幸福を願う先祖がもし、自分の子孫のひとりが、真実の仏法によって先祖を回向し、自らも幸せになるために信仰を始めたことを知ったならば、家代々の宗教を改めたことを悲しむどころか、「宿願(しゅくがん)ここに成れり」と大いに喜ぶはずです。


 先祖を救うという尊い真心を正しく生かすためには、先祖の写真や位牌を拝むことではなく、三世諸仏の本種(ほんしゅ)である南無妙法蓮華経の御本尊を安置し、読経唱題して回向供養することがもっとも大切なのです。

 大聖人は、
 「父母に御孝養の意あらん人々は法華経を贈り給ふべし。(中略)定めて過去聖霊(し ょうりょう)も忽(たちま)ちに六道の垢穢(くえ)を離れて霊山浄土へ御参り候らん」(刑部左衛門尉女房御返事・新編一五〇六)
と、妙法によって先祖を供養するよう教えられています。



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7. 他の宗教で幸福になった人もいるのではないか
   私たちの周囲には、さまざまな宗教や信仰によってそれなりの幸せを感じて暮している人もいるようです。 しかし人は幸福そうに見えていても、その実体はわからないものです。


 外見は大邸宅に住み、社会的にも恵まれた地位にありながら、非行や障害のある子供を持って、苦労している人もあり、家庭内の不和や、親族間の財産争いに明けくれている家もあります。


 また、現在は一時的に満足できても、明日の確かなる保障は、どこにもないのです。

 したがって、他の宗教を信じて確かに幸せになったなどと軽々に結論を下すことはできません。 また、「積善(せきぜん)の家には余慶(よけい)あり」ということわざがあるように、その家の過去の人々の善業が、今の人々の身の上に余徳となって現われている場合もありましょう。


 信仰には、確かに現世の利益がなくてはなりませんが、反面、その一時の小さな利益のみに眼がくらんではならないのです。


 たとえば、ある宗教を信じ、高名な霊能者などに相談を持ちかけ、少しばかりよいことがあったり、商売が上向いたことがあったばかりに、その宗教や霊能者に執心して、真実の仏法の正邪や、正しい因果 の道理に則った判断ができなくなってしまうようなものです。


 他の宗教で幸福になったと思う人も、大概はこうした人々であって、いわば一時の低い利益に酔いしれているようなものです。厳しい言い方をすれば、浅薄な宗教を信ずるということは、より勝れた根本の教えを知らず、結果 的には最勝の教えに背くということであり、その背信の罰をのがれることはできません。


 ちょうど、悩みや苦しみを、お酒によってまぎらわしたり、麻薬の世界に一時の楽しみを求めた人たちが、その悦楽から抜け出せず、結局、アルコール中毒や、取り返しのつかない廃人となってしまうように、他宗の小利益に執する末路には、大きな不幸、すなわち、最高・最善の仏法に背く大罰が待ちうけているということを知らなければなりません。


 つまり、いつとはなしに身心ともにむしばまれた、地獄のような生活に堕してしまうのです。

 日蓮大聖人は、
 「当(まさ)に知るべし、彼の威徳有りといへども、猶(なお)阿鼻(あび)の炎をまぬ かれず。況(いわ)んやわづかの変化(へんげ)にをいてをや。況んや大乗誹謗(ひぼう)にをいてをや。是一切衆生の悪知識なり。近付くべからず。畏(おそ)るべし畏るべし」(星名五郎太郎殿御返事・新編三六六)
と説かれており、他宗を信ずることによってもたらされる現象は、けっして功徳とはならず、むしろ、正法への帰依を妨げ、不幸へと導く悪知識であると仰せです。


 幸福の条件のひとつには、現在の生活の上におけるさまざまな願望の充足が挙げられますが、人間にとって、最高の幸せはなんといっても、過去・現在・未来の三世にわたる、ゆるぎない成仏の境界であって、真の幸福とはここに極まるものなのです。


 そして、この三世にわたる成仏は、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経の大法を離れては、絶対にありえないのです。



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8. 他の宗教によって現実に願いがかなったので信じているが
   日蓮正宗以外の宗教を信じ、“商売がうまくいった”とか、“病気が治った”という人がいます。また日蓮正宗に入信しても、初めは周囲の反対や人間関係などで苦労する人もいるかもしれません。
 
 しかし、正しい仏法とは私たちに正しい本尊と修行を教え、身心両面にわたって育成錬磨し、究極の目的である仏の道を成就させることを目的としています。


 正しい仏道修行をすることによって、いかなる苦難や障害がおきてもそれを乗り越えていける人こそ真に幸せな人なのです。困った時だけ拝み屋のような宗教にすがって一時しのぎの解決をしても、それは人生の本質的な幸福につながるものではありません。たとえば、勉強をしない子供に試験の時に答えだけを教えて、よい点数をとらせたからといって、その子供の学力が向上することにならないと同様なのです。


 もし現在、悩みがあったとしても、善因を積んで善果を生ずるように、その原因をよく知って、正法正義に帰依しなければ真の解決にならないことを知るべきです。


 また、低俗な宗教によって悩みが一時的に解決したからといって、それが人生のすべてに通 用し、人生の苦を根本から解決できることになるわけではありません。むしろ苦難に遭った時に努力することを忘れて一時の神だのみに走ることだけが身についてしまうでしょう。それはその人にとって決してよい結果 とはいえません。
悩みや問題はひとそれぞれにさまざまですが、その人の生い立ちや周囲の縁、年齢や心がけなどによって解決のかたちもまた異なっています。


 たとえば、種をまいても直ちに花を開かせることはできませんが、時が至れば必ず開花するように、時と機が熟さなければ解決しない場合もあるのです。


 また誤った宗教に縁することによって、願いがかなったこと以上に生命が汚染され、将来大きな苦しみを生ずる業因となることをよく認識すべきです。

 日蓮大聖人は、
 「又一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験(しるし)の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(諌暁八幡抄・新編一五三一)
と仰せられ、一時的に祈りがかなったように見えても、邪宗教によるものは、正法を隠蔽(いんぺい)しようとする魔の所為(行い)にすぎないと説かれています。


 そして正法による祈りについて、
 「大地はさゝばはづるとも、虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ 事はありとも、日は西より出づるとも、法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(祈祷抄・新編六三〇)
とものべられ、人生根本の大願たる成仏も、強い信心によって必ずかなうと教示されています。


 また日寛上人も、日蓮大聖人建立の大御本尊の利益について、
 「この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段・文段集四四三)
と仰せられています。


 真実の祈りは、正法正義による仏道修行によってかなうのであり、低俗な宗教によるならば、かえって苦業をますことを知るべきでありましょう。



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9. 先祖が代々守ってきた宗教を捨てることはできない
   誰しも先祖代々長く守ってきた宗教に愛着があり、その宗旨を捨てることは先祖の意に背くように思い、一種の恐れのような感情を抱くのは、無理からぬことです。

 しかし、先祖がいったい、どうしてそうした宗教を持ち、その寺の檀家になったかということを、昔にさかのぼって、考えてみますと、その多くは、慶長十七年(一六一二年)に始まる徳川幕府の寺請制度によって、強制的に菩提寺が定められ、宗門人別 帳(戸籍)をもって、長く管理統制されてきた名残りによるものと思われます。


 江戸時代は信仰しているかどうかにかかわらず、旅行するにも、移住するのにも、養子縁組するにも、すべて寺請の手形の下付が必要だったのです。もちろん宗旨を変えたり檀家をやめることは許されませんでした。

したがって、庶民は宗教に正邪浅深があり、浅い方便の教え(仮りの教え)を捨てて、真実の正法につくなどという化導を受ける機会もありませんでした。せいぜい現世利益を頼んで、檀家制度とは別 に、有名な神社仏閣の縁日や祭礼に出かけたり、物見遊山を楽しむぐらいのものでした。
 しかし現代は、明治から昭和にかけての国家権力による宗教統制もようやく解けて、真に信教の自由が保障され、みずからの意志で正しい宗教を選び、過去の悪法や制度に左右されることなく、堂々と正道を求めることができる時代になったのです。


 言葉をかえて言えば、今こそ先祖代々の人々をも正法の功力によって、真の成仏に導くことができる時がきたのです。

 釈尊の本懐(ほんがい)である法華経には、
 「此の経は持ち難し、若し暫くも持つ者は我即ち歓喜す諸仏も亦然なり」(宝塔品第十一・開結三五四)
と説かれています。 すなわち、世間の人々の中傷や妨害のなかで、妙法蓮華経の大法を信じ持つことは、なまやさしいことではありません。しかし、持ち難く行じ難いからこそ、三世十方の諸仏は歓喜して、その妙法の持者を守るのだと説かれているのです。


 また日蓮大聖人は、
 「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目  の光無間(むけん)に至って即身成仏せしむ」(御義口伝・新編一七二四)
と仰せられています。


 ほんとうに先祖累代の父母を救おうと思うならば、日蓮大聖人の仰せのように、一乗の妙法蓮華経の題目の功徳を供え、真実の孝養をつくすことが肝心なのです。


 今のあなたが、先祖が長い間誤りをおかしてきた宗教を、そのまま踏襲することは、あまりにもおろかなことです。 自分のあさはかな意にしたがうのではなく、正法にめざめてこそ、始めて先祖累代の人々を救い、我が家の幸せを開拓し、未来の人々をも救いうるのだということを知るべきです。



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10. 自分の気に入った宗教が一番よいと思う
   近年、世間を騒がせたオウム真理教の信徒たちは、ま麻原教祖に洗脳されて、ある者は殺人者となり、ある者は見せしめのために殺されました。
またアメリカにおいては、人民寺院を標榜(主張)する新興宗教の教祖の教えによって、集団生活をしていた千名近い信者が、ことごとく自殺して果(は)てるというすさまじい事件もありました。


 こうしたことは、極端な例ですが、誤った思想や宗教の恐しさを如実に象徴したものといえます。
 
 人はかたよった思想や邪宗教にとりつかてれしまいますと、その教えに熱中するあまり、人を人とも思わず、人の命すら自分たちの集団の論理で平気で葬ってしまうのです。


 思想や信条、ことに宗教という人間の生活規範にかかわる大切なものは、何よりも明るく清々しく健康的な理念で、うら打ちされていることが必要です。人々を心の底から躍動させる歓びにあふれたものでなければなりません。


 洋服や食べ物ならば、自分の好きなものを選べばよいのですが、自分の人生や家庭、生活に重大な影響を持つ宗教の場合は、その根本たる本尊や教義の内容を正しく取捨選択することが大切です。


 宗教の正邪・勝劣を知るためには、少なくともその宗旨が何を本尊とし、何を信仰の対象としているかということを、まず尋ねる必要があります。


 また、本尊とともに、その宗教の教義が正しいと判断されるためには、一切の人々が過去・現在・未来の三世にわたって救済されるのみならず、地獄界から仏界(ぶっかい)に至る十界(じっかい)のことごとく生きとし生けるもののすべてが、根本的に救われる道理と法門が解き明かされていなければなりません。

 日蓮大聖人は、
 「同じく信を取るならば、又大小権実(ごんじつ)のある中に、諸仏出世の本意、衆生
成仏の直道(じきどう)の一乗をこそ信ずべけれ。持(たも)つ処の御経の諸経に勝れてましませば、能く持つ人も亦諸人にまされり」(持妙法華問答抄・新編二九七)
と仰せられています。


 信仰を志すならば、好ききらいで判断するのではなく、もっとも勝れた本尊と教義のもとに誓願の尊さと修行の正しさを教示された宗教を求めるべきです。
そして永遠性や普遍性にとみ、広大無辺の功徳の備わった世界一の宗教を持つべきです。



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11. 自分は先祖の位牌を祭っているので、それで充分だ
   位牌(いはい)とは昔中国において、存命中に受けた官位や姓名を記した木牌(もくはい)に始まるといわれています。


 日本では、葬儀のときに白木(しらき)の位牌に法名、俗名、死亡年月日、年齢を記して、祭壇に安置します。これは、回向のためと、参列者に法名などを披露するためのならわしといえます。
 したがって位牌そのものを、礼拝の対象にしたり、死者の霊が宿っているなどと考え、それに執着するのは誤りです。


 位牌はけっして本尊のような信仰の対象物ではなく、位牌を拝んだからといって、死者の霊を慰めることができるというものではありません。


 世間の多くの人々が白木の位牌を、のちに金箔などの位牌に改め、その位牌を守ることがいかにも尊い大事な意味を持っているように考えていますが、これも本来の死者の成仏、死者に対する回向、供養とは何の相関関係もないことなのです。


 真実の死者に対する供養のためには、なによりも一切の人々を救済成仏させうる力と働きと法門の備わった本門の本尊を安置し、本門の題目を唱えて、凡身(ぼんしん)を仏身へ、生死を涅槃(ねはん)へと導くことに尽きるのです。

 日蓮大聖人は、
 「今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益(りしょうとくやく)有るべき時なり。されば此の題目には余事を交へば僻事(ひがごと)なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱へ奉るべき時なり」(御講聞書・新編一八〇八)
とも、また、
「但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(九郎太郎殿御返事・新編一二九三)
と説かれています。


 父母の成仏や、我が身の成仏を願い、一家の幸せを築くためには、一閻浮提(いちえんぶだい)第一の本尊を持ち、その御本尊に整足する成仏の種子たる南無妙法蓮華経の本門の題目を唱える以外には絶対にありえないのです。


 したがって位牌も塔婆も、この本門の本尊のもとにあって、しかも題目をしたためてこそ、死者の当体を回向する十界互具(じっかいごぐ)一念三千(いちねんさんぜん)の法門の原理が具わるのです。


 梵字(ぼんじ)や新寂(しんじゃく)・空(くう)などの字が刻まれた他宗の位牌や塔婆を建てることは、仏の本意にもとづく供養の仕方ではありませんから、先祖のためには、かえってあだとなり、実際には先祖を苦しめ正法不信の罪過を重ねる結果 となってしまうのです。



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12. 信仰の自由は憲法でも保障されているのだから、なにを信じてもよいはずだ
   日本国憲法の第二十条に、 「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」 と、明確に信教の自由が保障されています。


 この条目は、かって古代、中世より近世にいたる長い国家権力による、宗教統制の歴史の反省から、信教の自由が国民の一人ひとりに始めて保障されたものです。


 朝廷による宗教への保護と規制、また、江戸幕府の寺請制度と転宗の禁制、近代国家主義下の神道の強制などの歴史を経て、今こそ自由にみずからの意志で宗教を選び、弾圧、迫害の恐れもなく、堂々と信仰ができる時代となったのです。

 しかし、ここで私たちが注意しなくてはならないことは、どのような信仰を持とうとも、たしかに法律の上では自由を保障される時代を迎えたとはいえ、信教の自由の意味を単に、宗教の正邪、善悪を無視して、何をどう信じてもいいと、安易にとらえてはならないということです。


 信教の自由は、個人個人が自分の意志で、宗教の正邪・浅深を判断し、より正しく勝れたものを選び取る権利を持つということであり、その権利の行使には、それを正しく役立てていく、主権者としての責任もあるのです。


 法律の上では宗派の持つ教義の正邪の判断を下し、規制することはできませんが、実際に宗教を選ぶという時には、一人ひとりが正邪を厳しく判定して、唯一の正法を選ぶことが肝要です。


 信教に限らず、尊い自由の保障を受けた私たちは、この自由の基本的な権利を積極的に生かし、自らの責任において、立派にその恩恵を行使していく意志を持たなくてはなりません。


 せっかく憲法で保障された信教の自由を、放逸(わがまま)の意味に曲解するのは、あまりにも無責任に過ぎます。



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13. 信仰は必要なときだけすればよいのではないか
  “信仰を必要とする時”とは、どのような時を指すのでしょうか。苦境に立ってわらにもすがりたくなる時なのでしょうか。それとも慣例的に神社仏閣に参詣する正月や盆、彼岸を指すのでしょうか。あるいは冠婚葬祭の時でしょうか。または人生のなかで老境に至った時という意味でしょうか。


 こうしてみると、“信仰を必要とする時”といっても、受けとり方によって意味がまったく異りますから、一部分のみをとらえて、そのよし悪しを論ずることはできませんが、いま質問の内容について、わかりやすく説明するために、“信仰をしなくともよい時”があるかどうかを考えてみましょう。

 そのためには、まず信仰にどのような意義があるかを知る必要があります。


 信仰の意義として大要次の三点が挙げられます。
 第一に正しい宗教は、人間の生命を含む時間空間を超えた宇宙法界の真理を悟った本仏が、私たち衆生に対して人間のもっとも大切な根本の道を教え示されたものなのです。
それはあたかも人生という草木を生育している大地のようなものであり、人間という電車を幸せに向って快適に走らせるためのレールのようなものです。


 私たちの人生は老いも若きも平等に時々刻々と過ぎ去って行きます。誰もが毎日毎日が、生きた草木であり、走りつつある電車なのです。はたして生きた草木にとって大地がなくてもよい時があるのでしょうか。


 また走りつつある電車にレールがなくてもよい時があるのでしょうか。宗教とは人間の根本となる教えということであり、宗教のない人生は人間としての根本の指針を欠落した、さまよえる人生というべきなのです。


 第二に正しい宗教を信ずることは、成仏という人間としてもっとも崇高な境界を目標として修行することです。


 成仏とは、個々の生命に仏の力と智慧を涌現させ、何ものにも崩れることのない絶対的に安穏で自在の境地を築くことであり、この高い目的地に至るためには、たゆまぬ 努力と精進が必要です。


 どんな世界でも、高い目標を目指し、ひとつの道を極めるためには、正しい指導とたゆまぬ 修行鍛錬がなければならないことはいうまでもありません。思いついた時、気が向いた時だけ一時的に信仰するというのは、学生が気が向いた時だけ学校に行くということと同じであり、真の目的をなしとげることはできません。


 第三に正しい宗教とは人生の苦悩を根本的に解決するためのものであり、これを実践(信仰)すれば自ずと苦悩を乗り越える勇気と智慧などの生命力が備わるのです。


 それのみならず正法を信ずることによって、日常生活が仏天の加護を受けることも厳然たる事実です。自分の将来に対する不安や性格的な悩み、さらには家族や職場での問題など、誰もが多くの解決すべき難問や悩みを抱えながら生きているのではないでしょうか。


 また明日どころか一時間さきに何が起きるかわからない私たちは、自分の人生がいつ、どこで幕を閉じるかもわからないのです。“必要な時が来れば信仰する”などと言って、今日一日を自分勝手な思いつきで過ごすことは、かけがいのない人生の時間を無駄 にしているといわざるをえません。

 あなたにとって“信仰が必要な時”、それはいまを置いてないのです。



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14. 歴史のある有名な神社やお寺の方がありがたいと思うが
   たしかに年月を経た建物や、静かな庭園のたたずまいには、いかにも心をなごませる落ち着いたふんい気があります。


 しかし、よくよく考えてみなければならないことは、宗教の本来の役割は物見遊山や観光のためではなく、民衆を法によって救うことにあるということです。


 歴史的に有名であったり、大ぜいの観光客が訪れるということと、実際にその寺院が人々の救済に役立っているか、また参詣者に功徳を与えているかということとは別 の問題なのです。


 昔の人の川柳(せんりゅう)に「大仏は見る物にして尊ばず」という一句がありますように、奈良の大仏を見に行く人や、見上げてその大きさに感心する人はあっても、心から信じて礼拝合掌する人はいないものです。

 信仰心をもって行くというよりは、観光のために訪れるというのが本心でしょう。


 古都の神社や寺々は、もはや宗教本来の目的を失い、拝観料などの観光による財源で建物を維持することに窮々としているというのが現状です。


 そのほか、正月や縁日に大ぜいの参詣者でにぎわう有名な寺社も、宗旨の根本である本尊と教義を調べてみると、まったく根拠のない本尊であったり、仮りの教えであるなど、今日の人々の救済になんら役立つものではなく、むしろ正法流布のさまたげとなっているのです。


 ところが宗教の正邪を判断できない人々は、開運・交通安全・商売繁盛・厄除けなどの宣伝文句にさそわれ、これら有害無益の寺社におしかけ、自ら悪道の原因を積み重ねているのです。

 日蓮大聖人は、
 「汝(なんじ)只正理を以て前(さき)とすべし。別して人の多きを以て本とすることなかれ。」(聖愚問答抄・新編四〇二)
と説かれているように、正しい本尊と、勝れた教法によって、民衆救済の実をあげていくところに宗教の本質があるのであって、ただ歴史が古い、名が通 っている、多くの参詣者でにぎわっているということをもって、その寺社を尊んだり勝れていると考えてはならないのです。


 歴史的な建物や、庭園・遺跡などには、それなりの価値はあるのでしょうが、人々を救済するという宗教本来の目的から見れば、これら有名な寺社にはなんらの価値もないばかりか、むしろ人生の苦悩の根源となる悪法と、社会をむしばむ害毒のみがうずまいていることを知るべきです。



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15. 邪宗という呼び方が気に入らな
   邪宗という言葉は、日蓮正宗の人が、やみくもに他宗を攻撃するために勝手に使っているのではありません。

釈尊は法華経に、
 「正直に方便を捨てて但無上道(むじょうどう)を説く」(方便品第二・開結一二四)
と、四十余年にわたって説き続けてきた方便の経経を捨てることを説き、これ以後に説示する法華経こそ最高唯一の無上道であると言われています。


 また方便の経経に執着していた弟子の舎利弗(しゃりほつ)は自ら、
 「世尊我が心を知しめて、邪を抜き涅槃を説きたまいしかば、我れ悉く邪見を除いて空法(くうほう)に於いて証を得たり」(譬喩品第三・開結一三二)
と述懐(じゅっかい)していますが、ここにも低級な教えによる考えを「邪見」と称しています。

 また、日蓮大聖人は末法の教主として、
 「正直に権教の邪法邪師の邪義を捨てヽ、正直に正法正師の正義を信ずる」(当体義抄・新編七〇一)
ことが、もっとも大切であると教えています。


 これらのことからも、邪宗・邪法などの言葉は仏の経説にしたがって使用していることがわかると思います。

 ではなぜ他の宗派に対して、攻撃的なしかも刺激の強い邪宗という呼び方をするのかといいますと、個人の苦しみや社会の不幸はすべて邪(よこし)まな宗教が元凶となっているからであり、言いかえると誤った宗教、低劣な教えがこの世の不幸のたねだからです。


 昭和二十年に広島市と長崎市に投下された原爆は一瞬のうちに何十万人という市民、それもなんの罪もない子供や老人まで無差別 に殺戮(さくりく)しました。


 いま私たちが、核兵器の行使(こうし)が悪魔の所業であると叫び、この憎むべき不幸を二度とくり返してはならないと訴えるのは当然でしょう。そしてその不幸の原因が戦争であり、戦争は人間社会の誤った思想によって誘発されたことを考えますと、誤った思想が何十万人、いな世界大戦で戦死した人を含めると何百万人、何千万人の命を奪ったことになるのです。


 このような殺人思想に対して、邪教・魔説と指弾することは言いすぎでしょうか。失礼に当たるから控えるべきなのでしょうか。

 涅槃経(ねはんぎょう)に、
 「悪象のために殺されては三趣(さんしゅ)に至らず、悪友のために殺されては必ず三趣に至る」
と説かれています。この意味は災害や事故によって命を失っても地獄・餓鬼(がき)・畜生というもっとも苦しむ状態にはならないが、誤った教えを信ずるものは死して後に必ず三悪道に墜ちて永劫(えいごう)に苦しみ続けるということです。


 一切の不幸の元凶となる誤った宗教は、あたかも覚醒剤や麻薬のように、本人も気付かないまま、いつしか次第に身も心もむしばみ人生を狂わせていくのです。


 正しい仏法に目醒めた私たちが、誤った宗教を不幸の根源であると破折(はしゃく)し、邪宗と称することは、悪法に対する憤(いか)りであり、いまなお知らずに毒を飲んでいる人に対する警告の表れでもあるのです。



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